賞心庭 / Shosintei

心の字をかたどった心字池を中心とした賞心庭は中根史郎氏と中根行宏氏による作庭です。京都鷹峯の光悦寺垣を参考とした竹垣は、組子の数を増し竹穂を編み込んだ独特の意匠で神勝寺垣と名付けられています。

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総門 / Somon

昭和42年(1967)、旧賀陽宮邸(きゅうかやのみやてい)にあった総欅造りの門を移築したものです。旧賀陽宮邸は江戸時代末期には京都御苑内にありましたが、昭和40年(1965)に開基が譲り受けました。その後、旧賀陽宮邸は焼失したため現存しませんが、門だけは現在も往時の姿のまま、神勝寺を訪れる方をお迎えしています。扁額は建仁寺派管長小堀泰巌老大師の筆によるものです。

松堂 / Shodo

総門をくぐってまず目に入るのが、受付を行う寺務所の「 松堂 」です 。設計は自然素材や植物を多用し、大地から生えだしたような建築を手がけてきた、建築史家・建築家の藤森照信氏。山陽道から瀬戸内一帯を象徴する植物であり、また禅のイメージともっとも近い松をテーマに、手曲げ銅板で葺いた岩山のよ うな屋根の上に松の木を植え、表面を削った 松丸太を歩廊に並べて、周囲の自然と溶け合う建物を作り上げました。

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五観堂 / Gokando

僧侶が集まり、修行する場に欠かせない七種の建物、すなわち七堂伽藍の中のひとつかが「庫裡 」(くり)です。食事や掃除など、日常の行いすべてを修行として見出し、実践していく。そんな禅宗に特徴的な生活のあり方を体験できるよう、この五観堂では臨済宗の僧堂(修行道場 )と同じ形式で「持鉢 」(じはつ)と呼ばれる五枚組の器と太くて長い「雲水箸」を使い、雲水にとって一番のご馳走である、湯だめのうどんを召し上がっていただけます。

時間:11:00 - 15:00

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秀路軒 / Shuroken

秀路軒は、天明の大火(1788年)で焼失した表千家の残月亭および不審庵を、中村昌生氏の設計により再現した茶席です。火災による焼失の後、表千家の建物や庭のあり方は変化しましたが、焼失前の姿は堀内不識斎によって詳しく描き取られ、他にも全体の間取図や茶室部分の詳細がわずかに伝わりました。秀路軒は、それらの古図に基づいて復元されています。また露地については、作庭家の中根金作氏の指導の下、やはり当初の姿の再現が試みられました。茶室内では、抹茶とお菓子で一服していただけます。

時間:10:00-16:00

一来亭 / Ichiraitei

千利休が晩年、京都の聚楽屋敷に建てたとされる一畳台目の茶室を、中村昌生氏の設計により復元したものです。この茶室の実際を伝える直接的な資料はなく、千家三代の宗旦が建てた一畳台目の茶室が、聚楽屋敷の茶室を参照して建てたと推測されています。宗旦による茶室も千家四代・表千家初代の江岑の代には失われますが、江岑が書き残した宗旦茶室の詳細な寸法・仕様を参照して、復元に取り組みました。

含空院 / Ganku-in

滋賀県 臨済宗永源寺派大本山永源寺より移築再建した建物です。含空院は、永源寺開山正燈国師(寂室元光禅師)(じゃくしつげんこうぜんし)の塔庵として、永和3年(1377)一渓純庵主(いっけいじゅんあんじゅ)のとき、考槃庵(こうはんあん)の名で建立されました。当時の建物は永禄6年(1563)の兵火で焼失し、正保4年(1647)第81代如雪文巌禅師によって再興されて以来、歴代住持の住居及び修行僧の研鑽の場となってきましたが、縁あってこの地に移築されました。現在は茶房として利用しており、煎茶や甘味、湯豆腐を味わっていただけます。

開山堂 / Kaisando

当山勧請開山、益州宗進禅師の遺徳を偲ぶため建立された建物です。益州宗進禅師は明治29年(1896)大分県に生まれ、11歳で滋賀県堅田町の祥瑞寺大友宗忠和尚について得度。祥瑞寺、大仙院の両寺院住職や大徳寺執事長を経て、昭和29年(1954)には建仁寺派管長(第7代)に就任し、教化布教に努めてこられました。昭和40年(1965)には当山の勧請開山となり、平成元年(1989)6月20日に92歳で遷化されました。建物は、鎌倉時代の名作といわれる高野山の不動堂を模したもので、堂内には京都の陶工・村田陶苑による開山像を安置しています。扁額は元円覚寺派管長、松尾太年老大師の筆になるものです。

浴室 / Bathhouse

浴室は禅宗寺院の伝統的な七堂伽藍建築(山門・法堂・仏殿・禅堂・庫裡・東司・浴室)の一つで、建物内には跋陀婆羅菩薩(ばったばらぼさつ)をお祀りしています。禅宗では日常の立ち居振る舞いすべてが修行の場であり、修行の上で「心」と「体」の垢を落とすという意味で、「浴室」も重要な役割を果たしているのです。

大徹堂 / Daitetsudo(非公開)

大徹堂は、鎌倉の建長寺の中にある専門道場(修行道場)の坐禅堂を譲り受け、移築再建したものです。約250年前に建立されたこの建物は、移築に際して創建当時の葦葺に戻されました。堂内は坐禅をする場所である単が四方にわかれた、四方単という日本国内でも数例しかない単の配置となっています。「起きて(坐禅をする時)半畳、寝て一畳」と言われるとおり、修行道場で修行者に与えられるスペースは、坐禅堂内の一畳に限られています。

多宝塔 / Tahoutou

鎌倉時代初期の名作、滋賀県大津市石山寺の国宝 多宝塔を模して建立された。均整のとれた姿は優美であり、屋根から天に向かって建つ相輪は特にこの塔の為に設計されており、その天蓋の風鐸が絶えず妙音が奏でている。多宝塔とは、釈迦牟尼仏が「法華経」を説いた時、空中に七宝の塔が現われ、塔中の多宝仏(東方の宝浄世界にいるとされる)が釈迦牟尼仏を讃嘆して半座を分けたと説かれることに基づいて造られた塔で、一般的には釈迦牟尼仏と多宝仏を祀るが、当塔は大日如来を安置している。

慈正庵 / Jisyouan

當山第一世再住建仁大光和尚大禅師(道号 大光 法諱 慈正 俗称 森。大正5年4月22日、愛知県出身)の遺徳を偲ぶために建立された堂宇である。建物は、滋賀県 臨済宗永源寺派蔵六庵の旧本堂を移築再建した物であり、堂内には、佛師 江﨑明珠作の大光和尚坐像を安置している。

永照院 / Eishouin

開基が亡き母を偲んで昭和49年(1974)の17回忌の折に、奈良県大和郡山市慈光院の書院を模して建立された建物である。永照院は入母屋造の屋根に桟瓦の庇をめぐらし、十三畳の上の間と、中の間、下の間からなる。上の間には床・付書院を備えているものの、長押は省かれ、簡素で軽やかな意匠である。また全体に天井や鴨居の高さを低くしており、座ったときに安らぎや落ち着きが出るよう熟慮され、小高いこの場所からの庭園や山々の眺望は秀逸である。寺名は、開基の母の戒名より命名したものである。

鐘楼門 / Shouroumon

昭和40年(1965)創建当時の神勝寺の本堂であった旧西念坊の地にあった山門を、平成になりこの地に移築再建した鐘楼門である。無明院へと向かう長い階段を前にしたこの地に建つ山門は、楼上の鐘を撞きその鐘声を耳にするとで、参詣者に心の安らぎと心地よい緊張感を与える。是非とも一打合掌の心で静かに撞いて頂きたい。この鐘楼門には扉が無く、これは一切衆生が仏門に入る事を拒まない仏の大慈悲心を表すものである。

無明院 / Mumyouin

昭和52年(1977)2月16日に建立された神勝寺の本堂である。本尊には浜田泰三作の弥勒菩薩像を安置し、院内には三百畳を超える本堂では神勝寺の年中行事のみならず坐禅や写経など様々な自己の研鑽の場として利用でき、また本道の向かい側には階段状の席とカメラやテレビモニターによって茶道の手前が手に取るように分かる革新的な造りの茶席である明々軒、一般的なものより単が低く造られた坐禅堂などがある。また境内には現世利益を祈願する護摩堂、ぽっくり往生を願う保久利堂などの諸堂宇が並び、さらに庭園は中根金作氏の作庭による枯山水庭園で他に類を見ない広大さで、無明院から庭に向かって右側より、「無明の庭」「阿弥陀三尊の庭」「羅漢の庭」と呼ばれる。境内全体が参詣者にとっての自己の研鑽と心の安らぎの場であり、開基の悲願の結晶とも言えるものである。また、開基を偲ぶ墓碑が本堂正面の小高い場所に建てられており、ここに集う人々をいつまでも見守り続けている。

玄庵 / Genan

無明院内で唯一の数寄屋造りの建物で、四畳半の小間と十畳半広間そして水屋からなる茶室である。階上には、絵をこよなく愛した開山のために造られたアトリエがある。露地は中根金作氏の作庭によるもので、無明院前庭の枯山水庭園とは趣を異にした茶席の庭であり、建物との境には建仁寺垣と呼ばれる竹垣を配し、壁面を檜皮張りにすることにより、落ち着いた侘び寂びの雰囲気の中で茶を楽しみ心安らぐ時を過ごすことが出来る。

六地蔵 / Rokujizou

仏教の六道輪廻の思想に基づき、地蔵菩薩が輪廻の苦しみから衆生を救うためそれぞれの世界に堕ちた衆生を、六道それぞれの世界に応じて姿を変えて現れた地蔵菩薩が教導し一切の衆生の苦悩を救うといわれている。六道とは天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道のことであり、向かって右より、天道(日光地蔵)、人道(除蓋障地蔵)、修羅道(持地地蔵)、畜生道(宝印地蔵)、餓鬼道(宝珠地蔵)、地獄道(檀陀地蔵)のそれぞれの地蔵菩薩の姿である。

浪切堂 / Namikiridou

陸上や海上の安全ならびに息災・増益などの現世利益を祈願するため、堂内で火を焚き様々な供物や護摩木を火中に投じて祈祷を行う護摩堂である。「浪切不動明王」が祀られているので特に「浪切堂」という。「浪切不動明王」とは、弘法大師空海が海上安全を祈らんがために自ら一刀三礼彫刻をし、尊師恵果阿闍梨の開眼加持を受けた霊尊である。大同2年(806年)10月弘法大師空海が帰国の際、玄界灘の荒れ狂う風と波に船は翻弄され、たびたび沈没の危機にさらされたとき、祈念し不動明王を示現した。火焔を放ち利剣を振って魔風を鎮め、荒波を切り開いて、船を無事博多湾に導いたことからこの霊尊は「浪切不動明王」と呼ばれるのである。

保久利堂 / Hokuridou

「保久利」とは万葉言葉で、完全・円満・安穏を意味する言葉である。死ぬ時は長患いをせずに、ぽっくり旅立ちたいというような世に云う安らかな死という意味の「ぽっくり往生」だけではなく、現世においては安心を得て安穏なる人生が送れるように、そして後世においては阿弥陀如来の導きによって極楽での安穏なる時を過ごすことができるように、という二世の安楽を願う場である。堂内には、台湾の仏師 呉克明作の阿弥陀如来像が安置されている。

鎮守堂 / Chinjyudou

中国の伽藍神に起源を持つといわれ、日本の寺院においても仏教が伝わり、神仏習合が進む中で、寺院にも神祇が祀られるようになった。この伝統に倣う形で、当山に降りかかるあらゆる災い事を鎮め境内や伽藍を守る神として建立された。「弥勒の里天満宮」と称し、学問の神としても有名な福岡県太宰府の太宰府天満宮を勧請し祀っている。

安楽堂 / Anrakudou

故人の遺骨を納め供養する場としてだけではなく、分骨して納め供養する功徳によって、より多くの福業を得、安楽に導くために建立された納骨堂である。 正面に阿弥陀如来、両脇に聖観世音菩薩を安置し、掛札には「仏説阿弥陀経」中の「極楽という国に住む人々は、一切の苦しみがなく、ただ様々な楽しみだけを受けるので、その国を極楽と名付ける」という意味の一節が元永源寺派管長篠原大雄老大師の筆により揮毫され、この一節から「安楽堂」と命名された。

国際禅道場 / Kokusaizendoujou

臨済禅の教化布教の場として、国内のみならず広く海外にも門戸を開いた臨済禅の修行道場であり、日夜修行者が自己の研鑽に努めている。一般には非公開であるが、道場内には本堂 庫裏 禅堂(坐禅堂) 宿坊 開基堂などの伽藍が建ち並ぶ。本堂と庫裏は、昭和40年(1965)の神勝寺開山当時の本堂および庫裏であった旧西念坊を移築再建したものである。 本尊として仏師 江崎明珠作の弥勒菩薩立像が安置されている。また禅堂は、神奈川県鎌倉市 建長寺専門道場の禅堂(大徹堂)を移築再建したものである。境内奥には神勝寺開基故神原秀夫氏を偲ぶ開基堂がある。

非佛堂 / Hibutsudou

最初は、浄土信仰の象徴である阿弥陀如来を祀る「持佛堂」として建立された建物である。堂内に安置された阿弥陀如来立像は、開基の念持仏である。建物の設計は中村昌生氏によるもので、足利義政公の持佛堂であった銀閣寺東求堂を思わせる穏やかな姿に作られているが、銀閣寺のものよりはるかに大規模である。開基によって「非佛堂」と名付けられ、扁額の「非佛」は開基の筆によるものである。

荘厳堂 / Sougondou

白隠禅画墨蹟の常設展示館。200点を超える作品群を順次架け替えて展示する日本初の白隠専門の展示館。「荘厳」は、一般的には「寺の本堂などを仏像、仏具などで厳かに飾ること」とされています。しかし、正しくは「智慧や福徳などの善美をもって、身やその住む国土を飾ること」(日本国語大辞典)です。白隠は「仏国土には金銀で飾った壮麗な建物があるわけではない、仏国土は菩提心をもった菩薩によって荘厳されるのだ」と言っています。白隠禅師の菩提心によって生み出された禅画・墨蹟が展示され、これを鑑賞する人々があらためて菩提心を喚起される空間、それが「荘厳堂」です。

洸庭 / Koutei

禅寺である神勝寺の境内に建つアートパビリオン「洸庭」。伝統的なこけら葺きを応用し、全体を木材で柔らかく包んだ舟型の建物が、石のランドスケープの上に浮かぶ。物質感のある石の海を抜け、ゆるやかなスロープを上がり、小さな入り口から舟のなかへ入ると、暗がりの奥には海原が広がり、静かに波立っている。波間には、かすかな光が反射している。

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