〈イベントレポート〉「お寺はいつも現代美術の揺りかごだった ‐日本美術史の新視点‐お寺からはじまる現代美術」(後編)

Event Report 2018

ゲストスピーカー:橋本麻里(ライター / 永青文庫副館長)、山下裕二(美術史家 / 明治学院大学教授)
日時:2018年3月17日 14時30分〜16時30分

会場:神勝寺 無明院
 

さて、続く鎌倉時代の例として再び登場するのが東大寺である。源平の争乱の末期、平重衡による南都焼き討ちによってその大部分が焼亡、鎌倉時代に再建された。建築様式には宋からの影響が色濃く現れている。「宋風の南大門には、運慶・快慶による高さ約8mの仁王像が立っています。ここで表現されている力強さやリアリティのお手本になったのが、奈良の仏像でした。当時は王朝貴族や平氏の間で定朝様の仏像が一世を風靡していたわけですが、慶派の施主となったのは新しく政権に就いた源氏だった。彼らは、それまでの公家や平家が愛好したものとは違った雰囲気の仏像を欲していたわけです。そこで、慶派は天平時代のリバイバルに、宋の風味も加えたような像をつくり出しました」(橋本)。

やがて室町時代も末期になると、禅宗寺院において仏像よりも障壁画が注目を集めるようになっていく。その代表例が、大徳寺大仙院の狩野元信による障壁画「四季花鳥図」だ。中国的な水墨画と日本的なやまと絵の描法を折衷し、樹木や岩は水墨で、花や鳥は着色で描いている。これが、この後400年にわたり続いていく狩野派のスタイルとなった。「それまで禅宗寺院を飾る障壁画は仏教的な画題を水墨で描くのが基本でしたが、それが少しずつ変化し、世俗の画題も描かれるように。この花鳥画ももちろん、仏教の教義を反映したものではありません」(橋本)。

そして、最後に取り上げられたのが、画歴の初めには狩野派で学習した時期もあると考えられている、江戸時代の絵師・伊藤若冲だ。鹿苑寺(金閣寺)の大書院は、かつて彼が墨で描いた障壁画(※3)で飾られていた。「若冲は相国寺との関わりが極めて深かった人。お寺が当時の現代作家のパトロンになっていたんです」(山下)。まさしく、お寺が現代美術のゆりかごになっていた好例である。それを受けて、橋本氏が「お寺という場所はあらゆる時代を通じて、常に最新の、あるいはもっともお金のかかった、あるいはもっとも優れた美術の生まれる場所だったのです」と締めくくった。

今ではどちらかというと古美術品が伝えられているというイメージが強くなっているが、かつては新たな創造の場でもあった寺院。その歴史を知ることは、これまでの、そしてこれからの「現代美術」をどう考えるかという点において、新たな視点を獲得することにつながるのではないだろうか。

※3 鹿苑寺大書院 障壁画
非常に緻密な着色の絵画に対して、若冲の水墨画には遊び心があるという。とくに「竹図襖絵」は、フラダンスをしているような竹の表現がユニーク。障壁画全体で月に照らされた夜景を表現している。

執筆:牟田悠、撮影:片岡杏子
編集:MUESUM

 

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